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小説「氷壁」のコースを歩く

横尾谷より屏風岩(昭和58年8月)
 昭和30年1月、前穂高岳でナイロンザイルが切れ、実弟(五朗)を失い、(ナイロンザイル事件)を社会問題化させた、石岡繁雄さんが8月16日、88歳でこの世を去った。

 戦後間もない昭和22年、当時、神戸(かんべ)中学(現三重県立神戸高校)の教師であった石岡が、自ら作った山岳部の中から身軽な2名を選び、前穂高岳北尾根の末端に位置する600bの垂直の一枚岩「屏風岩」の正面ルートに挑み、初登頂を成し遂げたことはあまり知られていない。
 当時正面ルートからの過去の登頂記録は、早大隊が試みた(早大ルンゼ)と呼ばれる頂上に近い巨大なオーバーハングの直下にある岩の窪み(ルンゼ)である。
 ではどのようにして、このオーバーハングを突破したのか、それは石岡の後輩(名古屋大学山岳部)達からのヒント、「垂直の一枚岩にも所々低い木が生えて雪が積もる」であった。
 石岡達は独自の(投げ縄)とブッシュ(蔦や蔓などの草木)を最大限利用して、屏風岩を登り切った。

 ザイルが切れて実弟の五朗が転落死したのは、その8年後である。
 多くの専門家、大学教授やメーカー側は、使い方を誤ったと、ザイルの安全性を強調したが、石岡は自ら強度実験などに取り組み、鋭角に弱いナイロンザイルの欠陥を立証、責任を追及した。
 半生をかけた石岡の執念は、昭和50年6月、世界初の登山用ロープの強制力をもった安全基準の公布、転落死防止装置の完成へとつながった。製造物責任法の先取りでもある。なお現在の災害時のビル脱出装置や障害者介助機具の開発にも影響を与えたと聞く。まことに感慨深い話である。

「ナイロンザイルは何故切れたのか ? 」二分された新聞論調に興味を持った作家井上靖が石岡の許を訪れ、微細に亘って取材をしたのは、まもなくであった。
「氷壁」は昭和31年11月から翌年8月まで朝日新聞に連載された。昭和38年11月には新潮社から単行本が発刊され、たちまちベストセラーとなる。

 昭和40年1月のある日、犬山駅の待合室で何度も読み古した小説「氷壁」を開いていたら、突然「やぁ、久しぶり…」と声をかけられた。そのゴロゴロ声は高校時代お世話になった籠球部顧問の松永稔先生であった。松永先生とは、ずっと年賀状のやり取りをしており、小牧市二重堀のお宅へも何度か伺った。また年に1.2度は犬山駅でばったり会う。先生は海外旅行が趣味で、いつも現地からマジックで記した楽しい絵ハガキを戴く。
「この夏、氷壁の最後に(かおる)が歩いたあのコースを歩いてみませんか」
 山好きでロマンティックな松永先生と約束したのはこの時である。しかしながら先生は寸前になって膝を痛められ、約束の日、上高地の河童橋に立ったのは、私一人であった。

 過去幾度ともなく歩いたこの道。久しぶりに歩く今回は特に感慨が深い。
 梓川の上流に向かって右岸に足を踏み入れる。小梨平キャンプ場の喧噪を逃れると木々を渡る風の音が梓川の激しい瀬音と相俟って美しい和音を奏でる。
 明神を過ぎるころ、小説「氷壁」の舞台となった前穂高東壁の岩壁が仰ぎ見られる。
 その美しくも崇高な姿に憧れ、命を落とした多くの岳人は枚挙にいとまがない。
 やがて徳沢の草原地帯に入ると、後に(氷壁の宿)といわれ、一躍有名になった徳沢園の前に出る。(かおる)が結婚を決意した(魚津恭太)を心躍らせて待つ梓川沿いの宿である。 更に15分ほどで梓川に架かる新村橋に到着。主人公、魚津恭太とかおるの兄、小坂乙彦が元旦に挑んだ前穂岳東壁の起点、奥又白谷へ通じる。
 橋の袂で耳を澄ますと聞こえてくるようだ。ハーケンを打つ音、カラビナを架ける金属音、「よーし、来い」「よーし、行くぞ」ザイルで結んだ二人の声が……

 魚津がトップになり、鋭角の岩を乗り越えたときナイロンザイルの重い手応えがなくなり悲劇が起こった。小坂が絶叫と共に一個の物体となって落ちていった。
 ナイロンザイルのメーカー、八代教之助社長の妻、美那子が小坂の不倫の相手という設定で、「魚津がザイルを切った」いや「小坂が不倫精算のため自らザイルを切った」と世間の風評は二分した。
 魚津は皮肉にも神秘な美貌の人妻、美那子に惹かれ、美那子もまた小坂亡き後、魚津を追い始める。思い悩んだ末に魚津は自分に想いを寄せる小坂の妹、かおると結婚を決意する。 かおると魚津は徳沢園で結ばれる筈であった。しかしその日魚津は遂に姿を見せなかった。一刻も早く魚津と会いたいかおるは、翌朝待ちきれず涸沢に向けて出発する。

 私の前を単独行の若い女性が軽く会釈をして通り過ぎた。かおるが通過したのもこの頃であろうか。
 私はザックを背負うと橋を後にした。左側に壮絶な岩壁が展開する。石岡繁雄達が初登頂した屏風岩である。横尾の丸木橋を渡って涸沢への急登に入る。登山道は屏風岩を半周して雪渓をトラバース、涸沢小屋に到着する。

 まだ魚津と会えないかおるは、涸沢小屋からポッカの幸さんの案内で雪渓横のザイテングラードと呼ばれる痩せ尾根を穂高小屋に向かう。
 穂高小屋に美しい夕景が訪れた。かおるの話をじっと聞いていた穂高小屋の主(小屋の経営者で名ガイド、今田重太郎さんがモデル)の曲がっていた腰がピーンと伸び、直ちに救助隊が組織された。
 一方その一日前、飛騨側から滝谷のD沢を登っていた魚津は、頻繁に起きる落石に危険を感じ立ち止まった。後方に美那子がいる。かおるに会うためには、前へ進まなければならない。魚津のメモの最後に記された言葉は「限りなく静かなり」であった。

 私は穂高小屋の前に立った。目前の切り立ったジャンダルムが茜に映え、小説の中と同じように夕景が美しかった。
 今一度、あの穂高小屋(穂高岳山荘)の前に立ってみたいと思う。叶わなければ、せめて涸沢まででも……
 後日松永先生は、「井上靖は何故二人を徳沢園で逢わせなかったのだろう」と言われたが、もし私が作者であったら、やはり二人を結ばせることはなかっただろうと思う。万一結ばれたならば、私の心にこの小説に対する未練は残らない。
 亡くなるまで親しくして戴いた松永先生を折りに触れて偲ぶとき、「氷壁」の文字が大きく今でも私の脳裡をかすめて行くのである。
犬山 市橋
涸沢より前穂高北尾根(昭和40年8月) 氷壁の宿 徳沢園(昭和40年8月) 穂高小屋よりジャンダルム(昭和40年8月)(人物は筆者)