
朽ちかけた枯れ木に花が
第11番藤井寺から第12番焼山寺への道が「登り」の難所なら、窪川町の第37番岩本寺(いわもとじ)から足摺岬の第38番金剛福寺(こんごうふくじ)への区間は「長さ」の難所であろう。 へんろ道保存協会編の地図では80.7キロ、実業の日本社刊「四国八十八ヵ所ひとりの旅」では88.5キロ、エス・ビー・シー出版の「四国霊場八十八ヵ寺巡り」では94キロと同じ道なのに距離はまちまち、どれがほんとうの数値か知らないが、わたしが三日間かけて歩いた感じでは優に90キロメートルはある。 ぼやきついでにいえば、四国八十八ヵ寺の全工程もガイドブックによって・・・最長のA紙 1440キロメートル、最短のB紙 1120キロメートル と差し引き320キロも違う。 同じような道を歩くのにどうしてこれだけの差があるのか、考えられない。歩き遍路のほとんどはこの数字を信用しておらず、二つの距離を加算して2で割った1280キロメートルぐらいと思っている。遍路ガイドブックの編集にたずさわる人は、距離についてもう一度再検証する必要があるのではないか。
この日は二つある遍路道の内、山の尾根伝いに歩く「そえみみず遍路道」を選択し岩本寺に向かったのだが、またもや標識の見落としの様で・・・国道56号を行けども行けども案内標識が見当たらず、旅館を出て40分ほど行った頃、初めて出会った人に道を尋ねるともうとっくに過ぎてしまっているとの事、30分以上戻る事に抵抗も有り、「国道伝いに行かれたら・・・」とのアドバイスで延々と続く曲がりくねった山の登り道を自動車の排気ガスの臭いを嗅ぎ、激しく行き来するトラックの騒音に悩まされながら400メートルの高さまで一方的な登り道をトンネルも幾つも越えてやっとの思いで七子峠の峠茶屋に着いた。 これも試練と思わねばいけないのだろうが、自分の注意力の散漫さを棚に上げてではるが、高知県内の遍路標識の表示にはいささか不親切さを感じてしまう。午後から強い雨に見舞われヨレヨレになりながら、歩いていると小さな神社の境内で朽ちかけた枯れ木がきれいな花を咲かせているのを見て、感動を覚えつつ午後5時頃岩本寺にたどり着いた。
宿坊泊りということもあったので、お参りは明朝ゆっくりさせていただく事としてお風呂を先にいただく事とした。民宿であれば当然浴場にはタオルが洗って置いてあり、自由に使っていいのだが、この宿坊では100円でタオルを購入する様になっていた。 寺の宿坊もビジネス化してきており、予約の際には遍路バスツアーの客が優先であるようで、運良く空いて居れば泊めてもらえるといった感じで歩き遍路としては面白くない。 なるほど、高知市の竹林寺への途中で出会った釣り道具屋の主が近ごろの真言宗のお寺の対応を嘆いていた話もうなづける。だが、案内された個室は新しく増築したらしい8畳のキレイな部屋であり、普段は4名ほどの遍路を泊める部屋のようで、廊下の向こうの大部屋での団体客を尻目にユックリ休ませて戴くことが出来た。ともあれ翌朝は、6時から始まる本堂での朝のお勤めに参加した。今の本堂は昭和53年に建立され、天井にある575枚の絵は全国の有志が描いたものである由で、仏様の絵からマリリンモンローの絵など様々な絵があり、手法もさまざまあったのには驚いた。住職からそんな絵の話やら食欲、色欲などの有り難い説教を聞くことが出来、厳かな読経の中遍路一人一人が仏前でお焼香をする事が出来た。
低気圧が停滞しているようで、今日も“雨”、上下とも完全雨装備でただひたすら国道56号を歩き、途中へんろ道に入ったのだが、そこは高所であったようで下りっぱなしの道が続き、雨の中危険を感じつつの山下りとなったが、途中明治35年に完成されたという長さ90メートルのレンガ造りの熊井トンネルに出くわした。「トンネルというものは入り口は大きいが、出口は小さいものじゃのう」と言った人が当時あった様でナルホドである。レンガは佐賀港から1個1銭の運び賃で小学生などが1〜2個ずつ運び、熊井側入り口の石張りは二人の職人が右と左に分かれ腕前を競ったと言われている。昭和14年までは県道として利用されていたようだが、現在はわずか地元の人と我々遍路が利用しているのみの様である。当時としては大変な工事であったのであろう。 どうやらこうやら休憩所までたどり着くことができ、ホっと一息入れて出発しようと踏み出した足の下の傾斜が苔が生えて雨で滑りやすくなっていた為かスッテンコロリン、衣類はベタベタ、幸いに左手のスリキズのみで済んだと思ったが腰を打った様で以降の歩きに少々のダメージが生じたのには参った。 難所では緊張につぐ緊張で無事通過できたのだが、何でもないような小さな傾斜でトラブルとは、油断大敵とはこの事か、、、トホホである。
(奥村)
|